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飯田竜太
大正9年 (0才)山梨県境川村小黒坂  誕生
昭和13年(13才)甲府中 卒
昭和15年(20才)国学院大入学
昭和16年(21才)肺結核で帰郷
昭和18年(23才)右肋骨カリエス 手術
昭和22年(27才)上京
昭和26年(34才)山梨県立図書館勤務
平成4年 (72才)雲母」廃刊

倉田百三(1891-1943・明治24年-昭和18年2月12日歿 53歳 (戚戚院釈西行水楽居士) 多磨霊園)
昭和18年寒風の吹きすさぶ朝、肋骨カリエスのため病臥を続けた百三は幽界に旅立った。 「死はすべてのものを浄めてくれる。わしがこの世にいる間に結んだ恨みも、つくったあやまちもみんな、ひとつのかなしい、とむらいのここちで和らげてゆるされるであろう。墓場に生えしげる草はきたない記憶を埋めてしまうであろう。」と「出家とその弟子」の親鸞は告げたが、百三自身の死によって浄められたものは何だったのだろうか。

豊田四郎:::映画監督
「映画が文化であることを忘れた人が多すぎるのではないか。それが時流だ――ではすまされない問題だと思う」
 幼時に肋骨カリエスを病み、成年までもたないだろうといわれるほど病弱だった映画監督・豊田四郎が、 晩年、言い続けた言葉。
代表作:::、戦後の結核患者の話『わが愛は山の彼方に』(1948年作品)ほか

矢島せい子
1903年4月6日 東京浅草に生まれる 矢島せい子
。 1921年 カリエスで肋骨二本削除日本女子大学中途退学、代用教員を経て資格を得、母校浅草小学校に勤務。
1926年 矢島祐利と結婚。
1952年 民俗学者柳田国男氏に師事、論史「指ぬき考」を発表。
1953年 夫祐利と共著『家事と雑用』を発表。
1967年 「障害者ぼ生活と権利を守る全国連絡協議会」会長に就任、「子どもを守る会」副会長に就任。
1977年 障害者福祉への貢献で「ヘレンケラー賞」受賞。
1979年 「国民の足を守る中央会議」会長就任。
1988年1月24日 大腸ガンにて没。
著書に『くらしの歳時記』、『日本の食べものよもやま話』、『わたしの思い出』などがある。

森瀧市郎
1901年 4月28日 広島県双三郡君田村に森瀧利作・マツノの二男二女の末っ子(次男)として生まれる
1931年 3月 京都大学大学院卒業、同年、広島高等師範教授
12月27日 西 しげ(西晋一郎・ひさ次女)と結婚、広島市白島中町に新居を構える
1932年 6月8日 慢性肋膜炎のため広島県病院に入院(10月まで)
1943年 8月 広島市翠町に転居
1945年 8月6日 広島市江波町の三菱重工・江波造船所(爆心地から4キロ強)の動員学徒の教官室で原爆に被爆。ガラスの破片で右目を失う
1946年 9月9日 被爆した目の治療、両眼失明の危機を回避するため広島県双三郡吉舎町の星田病院に入院。
1950年 2月15日 広島文理大学文学部教授に就任
1990年 3月13日 原爆慰霊碑前での核実験座込みが500回となる
9月10日 肋骨カリエスのため広島赤十字病院に入院。肋骨一部切除、冷膿瘍摘出手術
1994年 1月25日 森滝市郎原水禁国民会議議長が92歳で死去
『著書』『反核30年』(日本評論社刊)、『ヒロシマ四〇年−森瀧日記の証言』(中国新聞社刊)ほか

 北原千鹿
明治20│  │五月十六日 北原百太郎・モト夫妻の三男として現在の高松市│
│    年齢│中央町に生まれる。                   │
│ 27│ 7│四月 尋常小学校に入学する。              │
│ 31│11│四月 高等小学校に入学する。              │
│ 35│15│四月 香川県立工芸学校金属彫刻科に入学する。      │
│ 39│19│四月 東京美術学校金工科に入学する。          │
│ 44│24│三月 東京美術学校金工科を卒業。卒業制作は「多宝塔出現」│
│大正3│27│この年、北条カズヱと結婚する。             │
│  4│28│この年、長男士(つかさ)が生まれる。          │
│  5│29│四月 東京府立工芸学校教諭に任ぜられる。
 昭和       │
  26│64│3月 香川県立高松工芸高等学校非常勤講師を辞する
    │   12月 肋骨カリエスで高松市の生家で死去する
                        │                           (平成七年十一月・廣瀬和孝作成)

村山径 
<柏崎市北条 大正6年(1917)〜昭和62年(1987) 70歳>
農家の長男に生まれ、小学生時代さまざまな馬の絵を描き仲間の人気者。根っからの絵好きで
、 京華中学で学ぶが、3年生の時 カリエスを病んで帰郷。その後再上京し
川端学校で日本画を学ぶ 昭和18年26歳で「子等」が文展入選。
59年「冠」で芸術院賞並びに恩賜賞を受賞し、日展理事となった。

石田波郷(本名・哲大)
大正二(一九一三)年、愛媛県温泉郡垣生村(現・松山市西垣生町)に生れた。
小学校四年生のころ、従兄弟らと、「五、七、五」と指折りながら俳句遊びをしていたという
。 松山中学校(現・松山東高等学校)時代に中富正三(後の俳優・大友柳太郎)に奨められて本格的に俳句を始めた。
隣村・余土村(現・松山市余戸中)の五十崎古郷(本名・修)の指導を得たのち上京、水原秋桜子に師事。
遂には「昭和俳壇の巨星」「現代俳句の旗手」となり、昭和四十四(一九六九)年、五十六歳で没した。
若くして胸を患い、肋骨七本(カリエス)を切除するなど病院へ入・退院を繰り返し、計七年間の入院生活を送った。

 俳句の歴史をひもとけば、連歌ー発句ー俳譜ー近代俳句ー現代俳句ということだろうか。このうち近代俳句の確立者は、いうまでもなく松山出身の正岡子規で、その偉大な業績に異論をさしはさむ人はいまい。子規が新しい生命を吹き込んだ短詩型文学の俳句に蝟集した子規山脈の人々は、県人のみを数えても枚挙にいとまがない。今日、一千万人ともいわれる俳句人口の基底をなす人々で、その頂点たる子規が郷土の誇りとして顕彰され、折に触れていまも松山人の口の端に上るのも、むべなるかなである。   翻って、石田波郷に対する同郷人の関心は如何ーと考える。  波郷は最初ホトトギスに依ったが、花鳥風月の諷詠を敢然と踏み越え、生活と俳句を重ねた境涯俳句を追究することによって現代俳句性を獲得していった。行を同じくしたのは、中村草田男、篠原楚(ともに松山出身)や加藤楸邨で、山本健吉が「人間探究派」と呼んで、定着した。  波郷は「風切宣言」(昭和十八年)で「俳句表現の散文的傾向▽平板疎懶(そらん)甘美なる句境 ▽俳句の絶対的価値軽視」を矯正しなければならないと考えた。 「俳句の韻文精神の徹底、豊饒なる自然と剛直なる生活表現」などを主張 「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々(しょう)又朗々たる打坐即刻のうた也」 (昭和二十一年、俳誌「鶴」復刊一号)とのべた。  若くして胸を患い、肋骨七本を切除するなど病院へ入・退院を繰り返し、計七年間の入院生活を送った。 文字通り生命を削りながら作句を放棄することはなかった。奇しくも、その姿は背髄カリエスに呻吟しながら 俳句・歌の革新に生命を燃やした子規の姿とダブルのである。  そんな波郷は、十九歳で上京以後、故郷へ帰ることは極めて少なかった。しかし、心はいつも松山の父母を思い、 山河を懐しがっていた。柿、橙、無花果、麦こがしなど松山の味も忘れなかった。 「秋いくとせ 石鎚山を見ず 母を見ず」の句は、係累と故郷をこよなく愛した波郷を余さず伝えている。  結婚後、波郷が居を構えた東京都江東区の北砂町には、波郷が暮らし、作句したことを誇りとする 土地の人々の願いによって、近年波郷記念館が設けられた。 たまさかその地に住んだ異郷出身の俳人を敬う江戸っ子の心意気を目の前に、波郷出生地・松山の人間として、 内心じくじたる思いを禁じ得ない。偉大な先駆者に対し、同郷人として余りに無関心に過ぎないかーと。  折しも今年は波郷生誕九十年で没後三十五年の節目の年。三十三回忌の一昨年、 これまで沈黙を守っていた波郷の長男・修大氏が、波郷の新生面を明らかにする著書二冊を相次ぎ刊行した。 その凄絶な生きざまに改めて感動し、大いに刺激された。俳句に関しては一読者に過ぎない門外漢ばかりだが、 有志あい集い顕彰会を発足したゆえんである。当面、顕彰碑・句碑建立を意図しており、 会誌創刊もその一環に位置する。出身地ならではの、波郷に関わる話題も、今のうちに収集しておきたい。 研究・調査は息長く、愚直に取り組みその成果を公開していく。




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